昭和52年07月24日 朝の御理解



 御理解 第43節
 「死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ。」

 こういう信心は本気で信心の稽古をしておるものでなければ、出来ない事であります。ただ教えられたからとゆうて、出来るものでもありません。常日頃に信心の教えを頂いて、しかもその教えが適格で間違いがないという、体験を積んだ上も積んだ人でなからなければ、出来る事ではない。例えば死に際にもお願いをせよという事は、死に際にどうぞ助けて下さい、というのじゃないのです。
 それこそ魂の世界に入っても、あなたのおかげを頂かずにはおられない、という事を信じた人でなからなければいかんのです。もう死に際にでもだれか助けて下さい、というのではないのです。死んだ先でもあなたのおかげ、天地より他に行く所はない、天地の親神様のふ所にいうならば、帰って行く様なものだからお願いをせずにはおられない。という事はまあ50なら50で亡くなるなら、50年間のお生かしのおかげを頂いておった事を心からお礼が申し上げられるという事にも通ずるでしょう。
 けれども矢張りそれが信じられなければ、私は金光様のご信心の、本当の有り難い事は分からないと思う。ただあらたかなおかげが受けられんというだけではなくて、教えを行じ、教えが間違いがない、教祖様は嘘をおっしゃていない、一分一厘間違いのない事が教えてあるという事を、体験した上にも体験しておりませんとここん所はね、あの世があるやらないやら、魂の世界などというても、ほんとにあるやらないやら分かりません。行ってみた事がないから分からんのだけれども。
 これほど間違いのない教祖様のお言葉、御教えであるから、この御教えも矢張りそうであろうと言える確信が出来て来るわけです。そこにまあいうならば死生の安心、教祖様は、丁度「眠るようなものじゃ」眠っておるからというて、矢張り神様のおかげに浴しないわけにはいかない。御霊も矢張り神様のご修行の中にあるんだ。と言う事は生きておる間だけが、あなたのおかげを頂くのじゃなくて、死んだ先も矢張りあなたのおかげを頂かねばいかん、出来ないんだという事が分からなければ。
 私は今日この43節という事。これはまあこれだけの御理解ですから、どんなふうに解たらいいんだろうかと思わせて頂いたら「43」と言う事を頂くんです。だから「43」というのはいうなら書いたら「しじゅう」というのは、いつもという事「さん」という事はお参りと言う事。いつもお参りという事は、いつも心に神様を頂き続け、いつも教えを行じていく生き方の人でなからなければ、この御教えは分からんという事だと思うです。通り一偏どん聞いてああそうかな、と分かっただけではいけない。
 ほんとに死に際にもお礼が言え、お願いが出来れるいうならば心境というものはね。教祖様の教えの間違いない事を確信した上でも確信しとらなければ出来る事ではないと言う事なんであります。そこでどういうなら教えを私共が身をもって行じさせて頂くかというと。それこそ御教えにもありますように「天の恩を知って地の恩を知らぬこと」とあります。空の方を向いてから拝む者はあるけども、地の方を向って拝む者はいない。いやむしろ地は(ゆうど?)というて、もう汚れた所のようにまぁ言うて来た。
 けども教祖様は「天は父なり、地は母なり」と仰られた。いうならば天地を拝ませてもらう。朝日を拝む者はあるけれども。夕日を拝む者がない。朝目覚ましのおかげを頂いて今日もどうぞと願う。またはお礼を言うならば、夕日にも矢張り今日も一日健康で無事に御用が出来ました、と言う様に夕日にもお礼を言う。その心の状態がお道の信心だというわけなんです。お食事をさせて頂きますでもそう。成程頂きますも言いよりゃ、御馳走様も言いよる。
 けれども取り分け御馳走様という。頂きましたというここに願いが込められなければいけない。頂いた物が血になり肉になり、さわる事が無い様に願わずにはおられない。あれを食べたけんあたったっちゃろう、と言う様な事ではもうほんとに神様に対してもあいすまん事。今日は少し頂き過ぎた様にあります。どうぞ体に障りません様にと、御馳走様と同時に私は、願う事それがいうなら「死に際にでもお願いせよ」と言う様な信心に段々なっていくと思うんです。
 信心を分かるというても、頂くというても限りがありません。けどもここまでは分かっておきたいというのが。今申しますように天の恩を知っただけじゃない、地のご恩徳も分らせて貰わなければ、金光様の信心は分かったとはいえない。朝日にお礼を拝むなら、夕日もまた拝ませて貰わなければ。頂きますときに頂きます、御馳走様と言うておるだけではいけん。いやむしろ頂いたその後が、頂き物がさわるような事があってはご無礼。どうぞ血に肉になりますようにと願わずにはおれない心なんです。
 お願いには慌てて来るけれども、お礼には慌てて来る氏子が少ないと。その少ない方の信心が分かった時、金光様の信心が分かった言う事になるんじゃないでしょうか。それこそ奇跡的なおかげを頂いてお願いしとりましたら。取り合えず電話でお礼申しあげときます、と言う様なのが多いです。はあどうぞどうぞと言うて、やあやあいうて参ってきてお願いするとけれども。そして又ついでの時にお礼は出てきますから、と言った様なのが多い。お礼が行き届く。
 それこそ願う時よりも、お礼をいち早くと言う様な信心が分かった時に、初めて金光様の御信心が分かった時。そういう信心が身について行く様、実意丁寧神信心がでけてそれこそ日参的な信心がでけて。始終お参り的な信心がでけて、始終教えが自分の心の中に頂けておると言う様な信心がでけて、初めて私はこれは実感として分からせて頂くみ教えだと思うです。死んだからというてお世話にならん訳にはいきません。そりゃあほんなこっちゃろうかと言うたらもう、願いもお礼もありません。
 けどもこれほど例えば間違いのない御教えを下さっておる教祖様のお言葉であるから、矢張り死んでからでも、此の方のこの神様のお世話にならなければいけない事が信じれるという事。それが信じれるという事がです。それを実感として分からせて頂くと言う事がです、お願いよりもお礼を大事にするとか、朝日を拝むなら夕日も拝まずにはおれない心が生まれてくるとか。
 頂く時も頂きますなら、その御馳走様だけではなくて、そこに願わずにはおられない。頂いた物がどうぞ身体に害すると言う様な事がないように、ではない血肉にならせて頂くようにと願わずにはおれない。行き届いた信心がでけていっておって、初めて死に際にも願わしてもらえる、今日まで御生かしのおかげを頂いた事を、ほんとに心からお礼が言えれる。そしてまたこれから先どの様な所か分からないけれども。
 願わずにはおられない信心が、おのずと出来てくるのではないでしょうか。とにかく行き届いた信心をしておらなければ、行き届いたいうなら信心生活がでけておらなければ、この43節は本当の意味の事には分からない。ただ聞いて分かったというだけならば、ああそうかなと分かるだけの事。ほんとに死に際にもお礼が言えれる。死に際にも願えれるだけの神様を頂きたいですね。
   どうぞ。